山号は入逢山、西山浄土宗は粟生の光明寺に属します。この常盤の地は嵯峨野の入口にあたり、 王朝時代から多くの貴族の別業が営まれたところです。
三条天皇の長子、敦明親王は後一条天皇の皇太子でした。しかしこの頃は摂政藤原道長の全盛時代であり、道長は一条天皇の中宮彰子(道長の長女)の 第三子敦良親王(のち後朱雀天皇)を春宮(皇太子)とするため圧力を加えました。 そのため親王は寛仁元年(1017)八月に皇太子を辞し、太上天皇に準じて小一条院の名を与えられました。院はこの常盤の地に隠棲し、後に出家しました。
親王の没後ここは寺となっていましたが、鎌倉時代に法然の弟子、 宇都宮頼綱(実信房蓮生)が寺内に念仏堂を建て西方寺と称するようになりました。 応仁の乱の頃に仁和寺が焼失してから寛永十一年(1634)再建されるまで170年の間、 仁和寺の寺基が当寺などに移してあったといわれています。
【敦明親王御歌】
雲居まで立昇るべき煙かと
みえしに思いのほかにもあるかな
京都市
現在の西方寺では敦明親王のお位牌をお祀りしております。
その後は応仁の乱以降の仁和寺は主に鳴瀧氏のお位牌をお守りしております。
鎌倉時代に蓮生上人が念仏堂を建てられたように、真言と浄土の信仰を伝えるお寺であったと思われますが、明治の廃仏毀釈により荒廃します。その際に浄土宗西山派に改宗し、菩提寺として檀家をとることで、法灯を保って参りました。現在も御室との繋がりを持たれた旧家とのお付き合いも続いております。